2006/12/12 火曜日

父親たちの星条旗

Filed under: 大事なこと, 映画 — 滝太郎 @ 0:34:50

「硫黄島からの手紙」を見た勢いで、順序は逆だったが「父親たちの星条旗」を見てきた。どちらの映画もひとつの作品として見ごたえのある作品だった。しかし、この二つをあわせて見て、クリント・イーストウッドが訴えたかったことがよりよく理解できた。栗林がなぜ洞窟を掘って戦ったのか?自決した日本兵を見て米兵はどう感じたのか?圧倒的な物量を持つアメリカ軍に対し、どう日本軍は抗戦したのか。その辺が合わせ鏡のようになっていて、興味深かった。また、日本、アメリカともに自国の事情にばかり注意が行きがちだが、敵も血の通った存在として理解することが大切だという監督のメッセージが伝わってきた。

この映画は硫黄島の擂鉢山に星条旗を立てた六人の兵士。そのうちの硫黄島の戦いで生き残った三人は英雄に祭り上げられ、アメリカ政府の戦時国債キャンペーンに利用される。政府が要求する彼らの姿と硫黄島で経験した彼らの真実のはざまに板ばさみになった苦しみを描いている。キャンペーンツアーと硫黄島でのリアルな戦闘シーンがめまぐるしく移り変わることで彼らの苦悩が浮き彫りにされていた。

三人だけでなく他にも多くの兵士が戦い、あるものは生き残り、あるものは死んでいった。その兵士たちの中に誰が英雄で誰が英雄でないという区別はなかった。戦場ではみんなが平等だったのだ。ただ単に運がよく生き残っただけなのだ。硫黄島での本当の話を彼らはしたかったはずだが、それが許されなかった。彼らは「自分は英雄なんかじゃない」と叫びたかったはずであるが、政府から期待されたこと以外は何もできなかったのである。最後のほうにあった「英雄とは必要な時に作られるもの」という言葉がこの映画の主題を表していた。戦争に「カッコイイ」は断じてない。

二つの作品を通してみて、印象に残ったのは戦闘の激しさ、残酷さだ。一瞬前まで元気で生きていた人がただの肉の塊になってしまう戦争の恐ろしさがはっきりと伝わってきた。爆弾で死んだ兵士の焼けただれた体、ちぎれた肉も容赦なく映像化されていた。負傷し血がドクドクと流れていて、助からないのがわかりながらも、それでも生きたいと願う兵士の悲しさ。そんなたまらない映像が立て続けに出てくる。それを抑えた色調のフィルムによって、グロになりすぎず何とか見ることができた。それでも十分きつい映像もあったが…。とにかく、もうそこには敵も味方もなく累々たる死体の原っぱが広がっていただけである。英雄が存在する余地はそこにはない。

二つの映画を通じて日本人とアメリカ人の交流シーンはほとんどない。栗林の回想を除くと「手紙」で伊原剛志が演じた西と彼が部下に手当てをさせた米兵との会話だけだった。その米兵が死んだ後、西が読んだ米兵の母親からの手紙にこの二つの映画の主題が詰まっていたのではないかと思う。その手紙は無事を願い、帰りを待つ愛に満ちたものだった。日本の兵士もアメリカの兵士も区別などはなく、それぞれが生身の心を持った人間だったのである。彼らには無事を祈る人がいて、それぞれがいろんな思いを残して戦っていたのである。それを日本にもアメリカにも偏らずに描くには二つの映画が必要だったのだと思う。

「手紙」のところでも書いたが、戦争は一人の個人の意思なんかとは関係なく、どんな思いも踏み潰していってしまうということである。死んだものには未来はなく、生き残ったものの未来はほとんどの場合望まない方向へと大きく変わってしまうのである。そんな未来を踏みにじられないためにも戦争はやってはいけない。

父親たちの星条旗
父親たちの星条旗
原作本も読んでみようかと思っている。ちなみに「硫黄島からの手紙」は原作はない。便乗本はある。

2006/12/10 日曜日

硫黄島からの手紙

Filed under: 大事なこと, 映画 — 滝太郎 @ 3:30:32

渡辺謙の講演会があってから、かなり自分の中で葛藤があった。何をしていても戦争のことをどこかで考えていた。やっぱり戦争はいやだ、自分はどうすればいいのか?そういう思考が頭の片隅にずっとはりついていた。

そういう葛藤の中で、この映画を見なければという思いと、見るのが何か怖いという思いが交錯していた。見ないという選択肢もあったが、そうしたら絶対に後悔するだろうなと思い、見に行ってきた。やっぱり見に行ってよかったと思う。

もともとクリント・イーストウッド監督には ミリオンダラー・ベイビーのハードボイルドさに打ちのめされたこともあり、しっかりした映画を作ってくれると思っていた。抑えた色調の画像で全編を統一し、日本人監督だったら描くことが難しいと思われるシーンもしっかりと撮っていた。泣いていた人もいたが自分には泣くというところとは違う部分にずしりときた映画だった。

さて、自分は硫黄島からどんな手紙を受け取ったのだろうか?

硫黄島で戦った人はいろんな背景を持っていた。渡辺謙演じる栗林中将はアメリカに留学していたこともあるかなりリベラルな人、伊原剛志演じる西中佐はロサンゼルス・オリンピックの馬術金メダリスト。この二人は自由な精神を持っていて、部下も人間的な扱いをした。中村獅堂演じる伊藤は一般的な軍人のイメージに一番近く、潔く散ろうとするが意思に反してちょっと間抜けな形になってしまった人。加瀬亮演じる清水は厳格な軍人たらんとするが、非情になれなかった人。二宮和也演じる実質的主役の西郷は本土に妻とまだ見ぬ娘を残して、いやいやながらも戦っていた。

その他にも、いろんな人がいたのだと思う。平和であればそれぞれいろんなことを、いろんなところでしていたと思う。日米あわせて五万人以上の人が死んだということは、五万の人生、未来が失われたのだ。その五万が平和でそれぞれの人生を生きていれば、それは世界にとっての大きな力になっていたに違いない。しかし、そんなひとりひとりの人生など有無を言わさず破壊してしまうのが戦争だ。だからこそ戦争は無意味でやってはいけないことなのである。こんなことを、監督のクリント・イーストウッドはじめスタッフ、キャストの人々は訴えかけているのではないかと思う。

自分の受け取った手紙にはそう書いてあった。

2006/11/26 日曜日

渡辺謙!!

Filed under: 大事なこと — 滝太郎 @ 22:53:14

23日に慶応大通信生のカミサンの誘いで、学祭の渡辺謙の講演会に行ってきた。

主演したクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」が公開直前なので、映画の宣伝とかハリウッドの話がメインなのかと思ったら、ほとんどが戦争の話だった。しかも、会場に来ていた人との対話形式で、まったく椅子には座らず精力的にいろいろな話をされていた。

渡辺さんは今度の映画を演じるためになぜあのような戦争が起こったのかを勉強したようだ。それで現在の日本に危ういものを感じているようだった。あの当時、戦争に反対していた人はいたはずだが、それをおおっぴらには言えないムードがあり、そして戦争にいたってしまった。それを繰り返してはいけないという思いが今回の映画を通じて訴えていきたかったようだ。

講演の中で印象に残った渡辺さんの言葉。

「戦争は起こってしまったら個人の力では押しとどめられない。起こらないように、努力しなければならない。」
「ある政治家と話したときに『こうすれば勝ててた。』といっていたが、そうではなくて、戦争をやってはいけないのだ。」
「この映画では戦争は悲惨だけどヒーローはいた、という映画にはしたくなかった。“戦争にヒーローはいない”」
「監督のクリント・イーストウッドや他のキャスト、スタッフともに“戦争は犠牲者しか出さないこと”“命の大切さ”をメインテーマに掲げて撮影に臨んだ」

自分も最近の政治に居心地の悪さを感じていただけに、同じ気持ちの人がいるのだなと、少しだけ安心し、勇気づけられた。戦争が起こってから後悔しても何もできない、後悔しないように自分は何をすればいいのか、考えていきたい。

もちろん戦争の話以外にも、プライベートの話や他の映画の話もされていた。とにかくどんな役でも演じる前にはかなり徹底して役に対する勉強を行い、納得してから演技を行っていることがよくわかった。戦争に”かっこいい”はないが、この講演会の渡辺さんはかっこよかった。とても充実した講演会だった。

2006/11/23 木曜日

水は何も言わない

Filed under: 大事なこと — 滝太郎 @ 21:23:21

こんなサイトがあった。

「水からの伝言」を信じないでください
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

学習院の物理の先生が作ったサイトである。

あまりにも荒唐無稽な「水からの伝言」を信じている人が多く、学校の授業で使われることも多いらしい。芸能人も信じている人がいて、倖田來未や、松任谷由実、谷村新司、窪塚洋介(汗)などもテレビ、ラジオ番組で紹介している。

当たり前だけど、水が言葉を理解することはない。完全なフィクションである。それも商売のための。水からの伝言の大元のサイトを見てもらうとわかるけど、「次世代波動デバイス」なるものを何百万円かで売っている。あくまでも商売なのである。

物理の話はできないが、言語学を多少なりともかじったことのある人間として言わせてもらうと、意味を決めるのは単語ではなく、文章、談話なのである。「ありがとう」とか「バカヤロー」という単語もどのような文脈の中でどのように出てくるかで意味はまったく変わってしまう。
たとえばAさんが、嫌いなBさんを殺してくれと、Cさんに頼んで、CさんがBさんを殺したとする。その後でAさんがCさんに「ありがとう」と言ったとしたら、その「ありがとう」はいい意味とはいえない。
逆に親が子供を心配しての愛情たっぷりの「バカヤロー」もある。
単純に単語だけでは善悪判断はできないのである。

百歩どころか、一万歩譲って個人的に信じるのはいいとしても(本当はよくない)、学校で教えるのはどうかと思う。物事の善悪は水に判断してもらうものではなくて、自分で判断するものである。その判断力を教えるのに嘘を使ってはいけない。
塾講師をやっているカミサンが最近の学校の教師には信じられないほどひどい人がいるといっていたっけ。

もし自分に子供ができて、学校でこんなものを教えられたら黙っていられないかも。

大阪大学の菊池誠さんのブログでは「水からの伝言」を含むいろんなニセ科学を議論している。過去ログが膨大になっているが、興味があったらおすすめ。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php

HTML convert time: 0.372 sec. Powered by WordPress ME